INDEX

  1. 大学に入るまで関東学連の存在は知らなかった
  2. 歴代3人目の関東学連・女性幹事長に
  3. 大規模大会を運営する大変さ、大会を作り上げる難しさ
  4. 箱根のことを考えたくない時期もあったけれど、やっぱり1月2日はワクワクする

INTERVIEWEE

川崎 和葉里

KAWASAKI Yayori

経済学部 国際経済学科 4年

中学、高校では陸上部に所属し、長距離の選手として陸上競技に打ち込む。東洋大学に進学後、関東学生陸上競技連盟のスタッフとなり、3年時に副幹事長、4年生のときに歴代3人目となる女性幹事長を務める。父、川崎勇二氏は、中央学院大学駅伝部監督。姉も國學院大學陸上競技部のマネージャーとして箱根駅伝を経験。

大学に入るまで関東学連の存在は知らなかった

―― 川崎さんのお父様は、中央学院大学駅伝部の監督で、小さい頃から家族で箱根駅伝を応援していたそうですね。初めて箱根駅伝を観戦したときのことは覚えていますか?
「覚えているのは、小学校1年生のときくらいからです。毎年、家族で大手町のスタート地点に行って応援していました。スタート地点はすぐに人でいっぱいになるので、前日から近くに宿泊して、日が昇る前の暗いうちから場所を陣取ってスタートを待っていましたね。箱根駅伝の観戦は、川崎家の毎年恒例のお正月の行事。その頃から1月2日・3日は毎年ワクワクしていました。」

―― 大学に進学し、中学、高校と続けていた陸上競技を続けることも含めていろいろ選択肢はあったと思います。その中でなぜ関東学連を選んだのでしょうか?
「特別に“これをやりたい”ということはなかったのですが、大学4年間で何かしら自分の中に残ることをやりたいという気持ちは持っていました。陸上を高校まででやめることは決めていたので、選手としてではなく、マネージャーとして選手を支えることも考えましたが、それも違和感があり……」

―― 違和感とは?
「昔から父が監督を務める中央学院大学のファンだったので、東洋大学の陸上競技部のマネージャーになってしまうと当然、表立って中央学院大学を応援するわけにはいかないですよね、それは難しいなあと(笑)。でもどこかで陸上と関わっていたいという気持ちはありました。」

―― 関東学連という存在は知っていたのですか?
「実は大学に入るまでまったく知りませんでした。大学で何をしようか考えている中で関東学連の存在を知って、いろいろ調べるようになったんですね。父も関東学連の役員で、姉も國學院大學の陸上競技部のマネージャーとして関東学連との付き合いもあったので、いろいろ話を聞いていくうちに、同じ選手を支える立場なら大会を作り上げるほうが面白そうだなと興味を持つようになりました。何よりも箱根駅伝に関われるというのは、大きな魅力でしたね。これまでは表舞台しか見ていなかった箱根駅伝が、実は学生団体が主催して運営していたことに驚くと同時に、自分もやってみたいなと。」

―― お父様とお姉様の反応はどうでしたか?
「反対はされなかったのですが、二人とも関東学連の大変さも忙しさもわかっているので、不安がられましたね、『続けられるの?大丈夫なの?』と。けれど、そう言われれば言われるほど、なんでそんな風に思うんだろうと逆に熱くなって、“やってやろう”という気持ちが強くなっていきました(笑)。最終的にはチャレンジしてみようと、関東学連に入ることを決めました。」

―― 負けず嫌いなんですね(笑)。
「そうですね。小さい頃から人見知りではありましたが、何をやるにしても負けたくないという気持ちは昔から持っていました。それは自分でも自覚していたので、関東学連の仕事もやり抜く自信は持っていました。根拠のない自信ですが(笑)。」
    

歴代3人目の関東学連・女性幹事長に



―― 箱根駅伝という、日本中が注目するスポーツのビッグイベントを学生主体の関東学連が主催、運営していることはあまり知られていません。そもそもどんな組織なのでしょうか?
「関東学連は、箱根駅伝や関東インカレなども含めて、年間10大会を主催しています。今年度のメンバーは31名。いろいろな大学の学生で構成されていて、東洋大学からは私を含めて2名が参加しています。基本的にそれぞれの大学で陸上競技部に所属し、そこから派遣という形で集まって仕事を進めていきます。」

―― 具体的には、どのような仕事をされるのでしょうか?
「関東インカレなど大きな大会では、まず競技場を決めることから始めます。競技場が決まったら、競技場でどのように大会を運営していくのか詳細を決めていき、そのあと選手エントリーの募集や競技日程、プログラムの策定、大会当日の審判団を集めたりと、大会を開催するために必要な準備をすべて行っていきます。取材規制や記者会見の準備など、メディア対応も関東学連の重要な仕事になりますので、競技場の中の各大学の待機場所や、カメラマン、ペン(記者)、観客などの各エリアを設定していきます。さらにスムーズな運営を行うために選手の動線など、考えなければいけないことは本当にたくさんあります。」

―― そのまとめ役ともいえる幹事長を川崎さんが務めるわけですが、最初から幹事長になりたいと思っていたのでしょうか?
「いえ、まったく思っていませんでした(笑)。基本的に、幹事長は希望者が1年生のときに立候補し、幹事長候補になります。幹事長候補は他の役職とは異なり、幹事長コースというのがあり、幹事長になるために必要な要素を学んでいきます。毎年、幹事長になりたい人は複数いるほど人気なんですが、私の代では2年生のときにその候補生がやめてしまって……。『じゃあ誰がやるの?』となったときに誰も手を挙げなかったんですね。私自身もまったく考えていなかったので、すぐには決められなかったのですが…。誰もいないならやるしかないと思い、最終的には気持ちが固まったときに、自分から立候補しました。ちょうど3年生になる少し前のことですね。」

―― ご家族には相談しましたか?かなり驚かれたのでは?
「実は、父にも姉にも相談しませんでした。相談して迷いたくなかったので、決まってから家族に報告しました。そのときは驚かれましたね。特に父は歴代の幹事長の大変さをよく知っていたので、なにより心配だったようです。」
     

大規模大会を運営する大変さ、大会を作り上げる難しさ

▲箱根駅伝予選会で結果発表をする川崎さん

―― 幹事長の仕事で思い出深い大会はありますか?
「箱根駅伝はテレビ放送なども含め、大規模な大会なので、大変さの度合いもケタ違い。しかし、運営の土台はできているため、自分たちで作り上げるという点では関東インカレと、関東学生網走夏季記録挑戦競技会のほうが強い思い入れがあります。

陸上大会の中でも関東インカレの規模になると、選手がウォーミングアップするサブトラックや照明設備がないと開催できなかったり、観客の方や選手、監督・コーチ、役員、スタッフを含めると、約15,000人が集まるので周辺にある程度の規模の駐車場が必要だったり、アクセスがしやすいなど、開催条件のハードルが高いんですね。その中で、2018年は日程の関係でこれまで開催にご協力いただいていた日産スタジアムから会場を変えなければならず、大規模な大会を開催するのが初めての相模原ギオンスタジアムで開催させていただくことになったので、ゼロから考えなければいけないことばかりでした。

なかでもハーフマランソンのコースを決めるには、公道を走るので交通規制の協力を得るために警察と何回も話し合って調整したり、周囲の施設や民家に一軒一軒まわって理解を求めたりしました。30軒以上はご挨拶に伺ったと思います。そうして自分たちで作り上げた大会という意味でも、無事に終わったときの達成感は箱根駅伝のときより大きく感じるときもあります。」

―― もう一つの関東学生網走夏季記録挑戦競技会は、大会名にもあるとおり、北海道網走で開催されたのですね。
「関東学生網走夏季記録挑戦競技会も、関東学連にとってチャレンジングな大会でした。この大会は昨年、急遽開催が決まった大会で、関東学連が主催する大会としては、初めて関東以外で開催した大会でもありました。長距離の1万mと5000mのトラック種目で、夏でも良い記録が出せる環境を整えることが大会の目的でしたので、涼しい会場を探していたところ、網走市にご協力いただけることになりました。

関東圏外だったので、いかに開催費用を抑えるかが大きな課題だったのですが、市が積極的に協力してくださり、照明もなるべくお金のかからない形で対応してくれたり、細かな工夫を重ねながら費用を最小限に抑えることができました。新しい地域での開催だったのですが、本当に地元の方々の温かいご協力に助けられ、とても思い出深い大会になりました。」

―― 箱根駅伝は、おもにどのようなスケジュールで準備されるのですか?
「毎年、7~8月くらいから準備は始まります。公道を占有することになるので、箱根駅伝のコースをルートとするバス事業者と運行の調整から動き始め、9月・10月は警察や行政、さらに中継所へのご挨拶も兼ねて打ち合わせを重ねていきます。そして12月はほぼ毎日、打ち合わせや会議で詳細を詰めていって、本番を迎えるというのが大まかな流れです。道路規制の方法を警察と調整したり、交差点にはどのように警備員を配置して規制するかなど、細かく決めなければいけないことを一つひとつ、約半年かけて準備していきます。」

―― タイムスケジュールもコースも大きく変わることはないのに、毎年と同じように…というわけにはいかないのですね。
「ほぼ同じコースで90回以上も開催してきているのに、なぜこんなにたくさんの課題が出るんだろうというくらい毎年、反省点があるんですよね。大会が終わったら、学連内での反省会だけではなく、警察との反省会などさまざまな関係者と反省会を開くのですが、それを一年かけて解決していっても、また新しい反省や課題が出てくる。でもそれは、より良い大会にしていこうとしてきた関東学連の歴史でもあり、大会が進化し続けている証でもあると思っています。」

―― 幹事長、主催者として、一番意識したこと、あるいは気をつけたことは何ですか?
「一番は事故を起こさないことですね。選手が車と接触したり、人や物がコース上に入って選手の走路を妨害したり。当たり前のことのように聞こえますが、片道100kmを超える公道を走るコースでは、それだけ事故が起きる可能性も高くなります。その可能性を準備段階から限りなくゼロに近づけることが、主催者としての大きな使命だと思っています。

その一つの試みとして、今年は警備員の人数と、コースを規制するカラーコーンの数を増やしました。これまでも毎年、10人前後人員は増やし続けてきたのですが、今年は思い切ってボランティアの警備員を100人近く増員して、事故が起きやすい箇所に配置しました。こうした改善の積み重ねが、より安全性の高い大会を主催していくための方法であると考えています。 あと、今年の箱根駅伝でいえば、もう一つ大きく変えたことがあります。」

―― 何を変えたのですか?
「予選会です。これまでは距離が20kmだったのですが、20kmを競技にしている大会は、世界を見渡すとあまりないんですね。箱根駅伝は大学対抗ということだけでなく、世界で戦えるマラソン選手を輩出することも大きな理念として掲げています。この観点から3〜4年前から予選会も世界標準のハーフマラソン(21.0975km)にするべきではないかという議論が続いていたのですが、1km伸びただけでも選手にとっては大きな変更ですので、慎重に判断する必要がありました。

そうした中で、いよいよ今年度に各大学や警察などとの調整を行い、ハーフマラソンでの予選会を実施できたことは大きなトピックと言えるのかなと思っています。」

―― 1kmコースが伸びたことでコースも変更されたんですね。
「会場は毎年同じ国営昭和記念公園をお借りして開催しているのですが、1km伸ばすためにコースも調整しました。現地に行って実際に距離を計測しながら、選手の安全を考えてなるべく広い道で距離を伸ばせるようにし、さらに5km毎に設置する給水ポイントも微調整を繰り返しながら100パターンくらいはコースを考えました。自分なりに選手目線で考え、一番いい条件が揃った安全なコースになるよう心がけましたが、今、振り返ってみると、こうした方がより良かったのではないかなと思う箇所もあります。それでも、その時の全力で考え抜いたコースなので、後悔はありません。答えは一つじゃないからこそ、少しでも良いものを、と考え続けることが大事なんだと思います。」
   

箱根のことを考えたくない時期もあったけれど、やっぱり1月2日はワクワクする



―― この4年間を振り返ってみて、今、思うことはありますか?
「同期に恵まれて楽しかったこともありますが、特に幹事長を務めた最後の1年間は正直、ツラかったなという思いが強いですね。大会前は毎日帰りも遅いですし、何よりも責任が大きく、関東学連のミスは幹事長の責任でもあるので、対応を迫られることも多かったです。ただ、今は大会を作り上げたという自信や達成感があるので、“楽しさ”というよりは“やってよかった”という充実感が勝っています。」

―― 幹事長を務めるうえで心の中で決めていたことはありましたか?
「『深く考えすぎないこと』、『物事を冷静に俯瞰で見ること』、そして『感謝の気持ちを忘れないこと』の3つですね。幹事長として自分が決めないと前に進まないことも多いので、深く考えすぎずに、早くかつ的確に決断することを意識しました。また、大会運営には全体を把握することが欠かせませんので、第三者的に、俯瞰で周りを見ながら、そして協力してもらっているすべての方々に感謝の気持ちを持って務めるようにしていました。」

―― 舞台を支えるという、裏方の仕事にはどのような魅力がありますか?
「1年の頃は、大会の裏側でこんな大変なことしているんだ、と驚くことばかりでした。だから最初は、頑張っている自分たちの存在をもっといろんな人に知ってほしいという思いもありましたが、いろいろな仕事を経験していく中で、たとえみんなからその存在を知られなくても、自分たちがいなければ大会は開催されない。自分たちが選手たちの安全を考えているからこそ、選手たちは思い切って走ることができるのだということに、やりがいを感じるようになっていきました。この経験は間違いなくこれからの私の人生において、大きな自信と誇りになると思っています。」

―― 最後の箱根駅伝を幹事長として迎え、大会を終えたとき、どのような思いがよぎったのでしょう。
「終わった直後は、ただただ、無事に終わって良かったと、ホッとしたことを覚えています。達成感というよりも安堵感ですね。でも1カ月経った今、振り返ってみると、よく4年間続けたな、幹事長もやりきったなと、少しずつ達成感を味わっています。」

―― 4年間、裏方として大好きな箱根駅伝に携わってみて、箱根駅伝の印象は変わりましたか?
「正直、仕事が忙しすぎて、あんなに好きだった箱根駅伝のことを考えたくないとまで思う時期もありました(笑)。運営に携わるようになると、本当にたくさんの人が関わっているし、学生だった私にとっては、尻込みすることもたくさんありました。でも、結果的に嫌いになることは一度もなかったです。忙しくてつらい思い出もありますが、やっぱり1月2日・3日はワクワクする。大好きな箱根駅伝だからこそ、より良い大会にしたいという思いが、この4年間だったような気がします。」
    

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