INDEX

  1. 生涯の恩師と出会い、叩いた東洋の門
  2. 指導者としてのモットーは「監督は人に非ず」「役が人を作る」
  3. 「努力と練習は嘘をつかない」そう信じ続けた50年

INTERVIEWEE

藤田 明彦

FUJITA Akihiko

1957年兵庫県生まれ。東洋大学附属姫路高等学校卒業後、1975年東洋大学経営学部商学科 (現・経営学部マーケティング学科)に進学。硬式野球部時代、4年次でキャプテンを務める。卒業後は東芝府中事業所に入社し、硬式野球部の一員として都市対抗野球で活躍。同チームでコーチや監督を務めた後、1997年8月から東洋大学附属姫路高等学校野球部監督に就任。2006年に退任後、東洋大学職員として勤務。2011年、東洋大学附属姫路高等学校野球部監督に復帰。2022年3月には第94回選抜高等学校野球大会に出場。同大会を持って監督を退任した。

生涯の恩師と出会い、叩いた東洋の門


  
――まずは、藤田さんが野球を始められたきっかけを教えてください。

実は、野球を始めたのは「入学した中学校で野球部が人気だったから」というシンプルな理由です。しかし、人気なだけあって1学年に100人ほどの部員が所属しており、入部してから半年程度は本格的な練習がほとんどできずにいました。そんな私が野球にのめり込むようになったのは、たまたまテレビで放送していた第51回全国高等学校野球選手権大会(通称:甲子園)の決勝戦を見たことがきっかけでした。両校のピッチャーが延長18回を投げきった上に、翌日の再試合も登板したことで、野球ファンからは伝説として語られている試合です。この試合に私は釘付けになり、野球に真剣に取り組みたいという気持ちが湧きました。

そうはいっても半年間は練習から遠ざかっていたため、すぐに部活に参加するのは気恥ずかしさがありました。なかなかグラウンドに足が向かなかったのですが、偶然廊下で出会った野球部の先輩に引っ張られるようにして練習に連れていかれ、ようやく復帰することができたのです。その後、2週間でレギュラーになることができ、そこから野球に没頭するようになっていきましたね。

――復帰してわずか2週間でレギュラーに選ばれるとは、すばらしいですね。中学から高校へと進学するときは、なぜ東洋大学附属姫路高等学校を選ばれたのですか。

決め手となったのは、東洋大姫路の田中治監督(当時)の存在ですね。ありがたいことに、中学での活躍を聞きつけて田中さんが自宅まで挨拶に来てくださったのですが、お会いした瞬間に言葉では表現できないほどの存在感の強さに圧倒されました。恐らく会話もたくさんしたと思うのですが、何を話したかまったく覚えていません。

両親からは「野球よりも勉学に励み、将来は家を継いで欲しい」と、県内の進学校に進むよう強く説得されていたのですが、最終的には自分の意志で東洋大姫路に進学することを決めました。

実は、東洋大学に進学したのも野球部の監督とのご縁が理由です。当時野球部の監督を務めていた高橋昭雄さんが、わざわざ東京から姫路までいらっしゃって「藤田、うちへ来い」と言ってくださいました。また、東洋大学から社会人野球チームに入るときも、監督の一言がきっかけだったんです。東洋大学の硬式野球部では下級生の時から活躍でき、4年次でキャプテンを務めたことも関係して、たくさんのチームからスカウトしていただきました。「野球部の寮から近いところを順に見学しに行こう」と思い、最も“ご近所”だった東芝府中事業所を最初に見学することにしました。そこでお会いした野球部の監督が、役員の方々に対して突然「今度、うちのチームに入る藤田くんです」と紹介したんですね。反射的に「よろしくお願いいたします!」と言ってしまい、そのまま入団することが決まったという具合です。これまで入団したチームはすべて、お会いした監督とのご縁で決まっていった形になりますね。

――監督の方々のお導きによって、藤田さんの野球人生が拓かれたということですね。恩師との出会いによって、藤田さんご自身も監督就任を目指すようになったのですか。

はじめから「監督になる」というビジョンを持っていたわけではありません。指導者の道を打診されたのは、東芝府中に入社してから7年目に「コーチにならないか」と言われたのが最初です。しかし、長年の経験がようやく実を結び、野球選手としては決して体が大きくない私が体格の大きい選手と比べても長打を打てるようになり、自分の技術にやっと自信を持てた頃のことでした。まだまだ社会人チームの現役を続けたい一方で、チームは自分を指導者にしたがっている、そのジレンマに悩みましたね。東洋大姫路でお世話になった田中さんにご連絡する機会があり、自分の悩みを打ち明けました。すると、田中さんは「社命を何度も断るくらいなら、会社を辞めてしまえ。会社を辞める覚悟がないならコーチになるんだ」と仰ったのです。その一言で気が引き締まり、コーチになることを決心しました。コーチを務めた翌年には監督もやることになるなんて、予想もしていなかったですね。

何年かにわたって監督を務めたのですが、ユニフォームを脱いだ後は東芝府中事業所の社員として働きました。入社して15年間は野球漬けだったため、次は社会のことを勉強しようと考えていたのです。その矢先に阪神大震災が発生し、地元(兵庫県)であることを考慮されたのか、兵庫県神戸市三宮にある事業所への辞令を受けました。ただ、毎日、練習か試合に没頭していた私がようやく家族と過ごす時間を持てると思っていたので、地元に戻れて嬉しいという気持ちにはなれませんでしたね。何度か断ったのですが、ここでもよぎったのは野球部のコーチになるか迷ったときに言われた田中さんの言葉です。最終的には単身で兵庫県に向かうことにしました。

赴任してからの休日は、知り合いが監督をしている高校の野球部を回って指導を手伝っていたのですが、東洋大姫路には行きませんでしたね。

――それは意外ですね。「地元に帰ったとなれば、まずは母校に行ってみよう」という気持ちになりそうなものですが……

東洋大姫路は県内でも屈指の強豪校だったため、「自分は行かなくても良いだろう」と思っていたんです。しかし、周囲の勧めもあって一度練習に顔を出すことにしました。そのとき驚いたのは、練習環境が想像していた以上に整っていないことでした。指導者が足りていない様子や劣化した施設などを目の当たりにして、「自分が手伝っている公立高校よりも大変な状況なのではないか」と察しました。その後、当時の監督が急遽退任することになり、後任として私に監督就任のオファーがありました。ただ、自分のライフステージを考えると、二つ返事で「はい、やります!」とは言えませんでした。会社を辞めることについては、家族からも反対されていましたからね。しかし、東洋大姫路の粘り強いアタックに徐々に気持ちが傾き、最後は家族を説得して母校の監督になる道を選びました。

監督をすることに前向きになれなかったのは、会社を辞めなければならないことの他にも「自分は高校生の指導はできない」と常々感じていたからです。東芝府中の監督時代には、選手スカウトのために高校の野球部を訪れる機会がありました。実際の練習を目にして、社会人野球とは異なり「指導者として叱ること」「チーム全体の空気を引き締めること」が高校野球の練習では何よりも重要だと感じたのです。高校生はまだ自己が確立しているとは言いがたく、良くも悪くも純粋です。指導者である監督が「黄色」と言えば、赤も青もすべて「黄色」だと考えてしまうような危うさがあります。自ら判別できる大人が取り組む社会人野球やプロ野球とは大きく異なる指導方法は、自分には向いていないと思っていましたので、まさかの展開ですよね。
  

指導者としてのモットーは「監督は人に非ず」「役が人を作る」


   
――思いがけず始まった東洋大姫路の監督人生ですが、指導ではどのようなことを大事にしていたのでしょうか。

常に意識していたことが二つあります。一つ目は、恩師である田中元監督が仰っていた「監督は人に非ず」という言葉です。「俳優と同じように、『自分じゃない自分を演じる』ことができなければ野球の監督はできへんよ」と言われたことを強く覚えています。田中元監督は、私たちに対して常に厳しく指導をされていました。しかし、東洋大姫路の前に率いていたチームの生徒からは優しい監督として認識されていたのです。チームの特徴や生徒の個性に応じて、自分を演じ分けていたのだと気付き、それであれば自分も同じように監督を演じようと思うようになりました。

二つ目は、「役が人を作る」という言葉です。人は役割を与えられることで、その役割に見合った振る舞いができるということを示します。例えば、私は大学3年生まで皆を引っ張るタイプではありませんでしたが、4年生でキャプテンになった頃から同級生に「人が変わった」と言われるようになったのです。恐らくキャプテンとしてふさわしい行動を意識するようになったからだと思いますが、実体験としても印象的な言葉ですね。監督になってからも、野球に限らず自分の一挙手一投足が生徒の手本になると思い、グラウンドのトイレ掃除などを率先して行っていました。

――生徒のお手本になるよう、常に意識をされていたのですね。定年退職のため、東洋大姫路野球部の監督を2021年度で退かれましたが、退任が決まってからチームの雰囲気に変化はあったのでしょうか。

まず、生徒たちは気持ちが楽になったのだろうなと感じましたね。厳しい指導もたくさんしてきましたので、辞めると分かってほっとしたのではないでしょうか。また、「監督に、最後にひと花咲かせてあげよう」といった、退任を契機としてチームが一丸になる雰囲気も生まれたように思います。その結果、普段ヒットを打たない選手がヒットを打ったり、ギリギリの場面で走塁がセーフになったりと、大事な場面でビッグプレーが出ることが増えました。引退宣言により、技術ではなく集中力やメンタル面で生徒の成長が垣間見えました。2021年の選抜高等学校野球大会(通称:センバツ)出場も、こうした成長があったからこそだと感じています。

――ここ一番の場面においても、「監督を花道で送り出したい」という生徒たちの気持ちが実力として現れたのですね。

センバツに出場したチームは、私としても「ここまで一体になるのは久しぶりだな」と感じるほどの連帯感がありましたね。高校野球を見る際には、ぜひチームの一体感に注目してみると、これまでとは違った視点で楽しめるかもしれませんよ。

加えて、東洋大姫路で最後に指導したチームは「力を出し切る」ことに長けていたように思います。これまでの指導経験から、チームが力を出し切れるかどうかで試合の結果が大きく左右されると考えています。この考えに基づいたとき、最後に指導したチームは力を出し切れない試合はほとんどありませんでした。東洋大姫路の歴代チームの中ではそれほど強くないチームでしたが、センバツでも全力で対戦校と戦うことができたと感じています。
   

「努力と練習は嘘をつかない」そう信じ続けた50年


教え子からプレゼントされた木彫りの盾。各行の頭文字を縦に読むと「ありがとう」というメッセージになっている
撮影:藤田明彦さん


――これまでの監督人生を振り返って、特に印象的な出来事はありますか。

意外に思うかもしれませんが、今でも思い出すのは、負けた試合のことですね。

例えば、東芝府中の監督時代、都市対抗野球の準決勝に進んだときのことです。この試合に勝てば、決勝戦では東芝と戦うことになり、史上初のグループ企業同士の決勝戦が実現するという機会がありました。率いていた東芝府中は決勝まで進むのも珍しかったため、準決勝の試合中に決勝戦の戦略を考えてしまったのです。一時の気の緩みが良くなかったのか、結果として東芝府中は準決勝で敗戦。目の前の試合に集中していればよかったと、自分にとっては大きな悔いとして印象に残っています。

この後悔をその後の野球人生に生かしたつもりでしたが、東洋大姫路の監督時代にも同じ過ちを犯してしまいました。原樹理投手(東洋大姫路⇒東洋大学 現・東京ヤクルトスワローズ所属)を擁するチームで、県大会を戦っていたときのことです。9回表、2対1で東洋大姫路がリードしている局面で、ふと気が抜けてしまう瞬間がありました。私は2006年に一度東洋大姫路の監督を退いたのですが、6年のブランクを経ての復帰後間もない試合でしたので「復帰してすぐでも、甲子園に出場できるかも」という思いがよぎったのです。そう思った矢先に、9回裏の初球で相手チームにホームランを打たれ、試合に負けてしまいました。もちろん甲子園出場も逃すことになったのです。なぜ東芝府中の監督時代のミスを忘れていたのだろう、とつくづく思いました。あの一球は、いまでも忘れることができませんね。

――反対に、良い印象の出来事や、生徒との思い出はありますか。

1998年に行われた第80回甲子園でしょうか。東洋大姫路の監督に就任して最初に指導した代が甲子園に出場できたという点と、私が指導した中で最も練習した学年だろうという点で、強く記憶に残っています。確か、就任時の三年生たちには「三年分の指導をこの一年でやるからな」という宣言を生徒たちにしたと思います。

結局、甲子園では勝つことができなかったのですが、教え子の一人が試合で最後のアウトを取ったとき、私の方へ飛び上がるようにして戻ってきたことをよく覚えていますね。先日、その当時の三年生たちに久しぶりに会ったのですが、引退を祝って木彫りの盾をプレゼントしてくれました。私が指導の際によく言っていた「努力と練習は嘘をつかない」という言葉が刻まれているのですが、よく見ると文章の中に「ありがとう」の5文字が隠されています。卒業後も自分の言葉を大切にしてくれていると知り、とても嬉しかったです。

――ご自身が大切な思い出として覚えていらっしゃったことを、生徒の皆さんも同じように感じていらっしゃったのですね。東洋大学と深い縁をお持ちの藤田さんにとって、東洋大学の印象や、東洋大学そのものはどのような存在かをお聞かせいただけますか。

振り返ってみると、15歳で東洋大姫路に入学してから2021年の3月で監督を退任するまで、ブランクはあるものの、ずっと東洋大学とのつながりがありました。現在で65歳ですが、入学から50年を経てようやく東洋大姫路を卒業できたような気持ちですね。

長年関わった東洋大姫路をはじめ、東洋大学には異なる考えや背景を持ったさまざまなタイプの人がいて、また、それを受け入れる“懐の深さ”のようなものがあると感じます。東洋大姫路では、進学後に野球を続けない子に対しても、東洋大学を勧めていました。東洋大学を進学先として勧めていたのは、私が身を持って“懐の深さ”を体感していたからなんですよ。

――最後に、藤田さんから野球に取り組む学生に向けてメッセージをお願いします。

「努力と練習は嘘をつかない」ということを信じてほしいですね。野球は、得点が数字で表れますし、ヒットも打った瞬間にセーフやアウトの予測がしやすく、結果が目に見えてわかるスポーツです。ボテボテのヒットを打ったときに、「間に合わないから」と力を抜いて走ることもできますが、指導する際には「そこで手を抜かないことが人生につながる」と伝えていました。もちろん、野球部に所属している以上は野球で成功することが大事ですが、ホームランや完封といった結果は野球の中での一つの思い出に過ぎないと思っています。本当に大切なのは、「達成するまでに何をしてきたか」であり、それは社会に出てからも必要な思考です。そう考えると、目的を達成するために、努力を積み重ねることを大切にしてほしいですね。

私自身、野球に打ち込むきっかけになった甲子園の試合を見たあの日から現役選手を引退するまで、バットを振らなかった日はありません。「自分の人生そのものが野球であり、甲子園」と言い切れるほど努力を重ね、野球に全力で取り組んできました。その結果が今につながっていると感じています。
   

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