INTERVIEWEE
柏原 竜二
KASHIWABARA Ryuji
2012年 東洋大学 経済学部 卒業
1989年生まれ、福島県いわき市出身。高校時代は全国大会への出場はなかったが、高校3年からタイムが伸び始め、東洋大学進学後にその才能が開花。大学1年生のときから箱根駅伝に出場し、5区で区間記録を更新する活躍で東洋大学を初の総合優勝へ導く立役者となる。その後、4年連続で5区を走り、区間新を3度更新。「山の神」と称される。2008年世界ジュニア10000m7位、2009年ユニバーシアード大会に日本代表として出場し8位入賞するなどトラック競技でも活躍した。大学卒業後、富士通株式会社に入社。駅伝などで活躍後、2017年に現役を引退。現在は同社に在籍しながら、文化放送『箱根駅伝出場大学応援ラジオ 箱根駅伝への道』のナビゲーターを務めるなど、陸上競技の普及活動に携わる。
“初代・山の神”今井正人さんにあこがれて
画像:柏原竜二さん(所属する富士通株式会社にて)――箱根駅伝の全10区間の中で5区は登りが続くもっとも過酷な区間と言われていますが、柏原さんは1年生のときから4年連続でこの5区を任されました。どのような経緯で5区を走るようになったのでしょうか?
「入学当初、新人歓迎会で自分から『5区を走りたい』と志願しました。当時は、先輩の釜石慶太さんが5区を務めていたので、今振り返るともう少し謙虚な言い方があったかなと思います。ただ本当に箱根の5区を走りたくて東洋大学に進学したので、その信念は曲げたくないという気持ちは常に持っていました。」
――その強い意志は、なぜ生まれたのでしょうか?
「僕の高校時代の恩師である佐藤修一先生(現・福島県立田村高校)の教えです。佐藤先生は、『強いチームに入れば、当然、上級生は速いし、毎年、速い1年生が新しく入ってくる。だから1年生のときから死に物狂いでレギュラーを取りにいく心がまえを持たないと、4年間、箱根駅伝には出られないぞ』と教えてくれました。その上で『お前ならいける』と言っていただいたことが、僕の強い意志を生んでくれたと思っています。」
――5区を走りたい、と思うようになったきっかけは何だったのでしょうか?
「同じ福島県出身のランナーで初めて“山の神”と称賛された今井正人さん(順天堂大学出身)から箱根駅伝の話をいろいろ聞いているうちに、純粋に今井さんが見た景色を僕も見てみたいと思ったのがきっかけです。」
――特に惹かれた言葉はありましたか?
「高校3年生のとき、都道府県対抗駅伝大会が終わった帰り際に、広島駅のホームの待合室で今井さんと話したときのことです。『5区ってどんな区間ですか?』と聞いたら、今井さんは“きつい”とか“厳しい”と言うのではなく、『やりがいのある区間』だと教えてくれました。
そのひとことが僕にとってはとても印象的で、とにかく5区で走ってみたいと思うようになったんです。そして入学してからは佐藤修一先生の教えどおり、必死にがんばってレギュラーになり、5区を走らせてもらいました。」
――その初めての箱根駅伝で柏原さんは、1年生ながら8人を抜いて4分58秒差を逆転。まさに激走で東洋大学を初の総合優勝に導く活躍を見せました。
「あの年のチームは優勝をねらえる戦力が整っていましたが、トラブルの影響もあり精神的に厳しい状態だった上にケガ人も多く、正直、チームにまとまりを感じることができませんでした。
そんな状態のチームをまとめてくれたのは、当時の佐藤尚コーチです。佐藤さんは“やるしかない、やらなきゃいけない”と選手に檄を飛ばし続けてくれました。俺たちは勝つしかないんだと。
本当にチームがなんとかまとまったのは、本番10日くらい前。選手もスタッフも腹をくくったという言い方のほうが正しいかもしれません。」
――あらためて振り返ってみて、勝因はなんだったと思いますか?
「やはり佐藤さんの力が大きかったと思います。バラバラだったチームをまとめてくれたことも大きいですが、選手の状態を見抜き、適材適所に選手を配置する力が佐藤さんはすばらしかったと思います。たとえば復路最後の8区から10区は、千葉優さん、大津翔吾さん、高見諒さんが走りましたが、エントリー時は補欠として登録していた3人を抜擢しました。特に千葉さんはうまく走れていない時期もありましたが、佐藤さんは彼を信じて『8区は千葉しかいない』と任せ、その期待に千葉さんが見事に応えたのです。千葉さんはその経験を生かして、3年連続8区を走って2度の優勝にも貢献しました。」
勝って被災地にメッセージを伝えた最後の箱根
画像:主将として臨んだ最後の箱根駅伝(2012年)。4年連続区間賞で往路優勝を果たすと、翌日、東洋大学は復路も制覇。前年逆転された雪辱を果たし、3回目の総合優勝を果たした。
――柏原さんは在学中、3度の総合優勝(往路優勝4回)を記録。ご自身は4年連続5区を走り、チームは初優勝から一気に強豪の一角を担うようになりました。その4年間で、チーム内に何か変化はあったのでしょうか?
「一度勝ったことで、負けることが許されないという雰囲気はありました。特に1年生が5区で爆走して優勝したおかげで、“柏原がいる4年間は勝ち続けるだろう”という期待が世間からも大きくなっていきました。その結果、それぞれ責任感は強くなっていったように思います。」
――それはプレッシャーにはならなかったのでしょうか?
「箱根駅伝でプレッシャーを感じない人なんてひとりもいません。監督、選手はもちろん、付き添いのメンバーも、沿道でタイム計測しているメンバーも、1秒2秒ずれただけでもプレッシャーがかかる。それくらいすべての人にとってプレッシャーを感じる重要な大会なんです。」
――そのプレッシャーに対し、柏原さんはどのように向き合ったのでしょうか?
「正直、3年生まではきちんと向き合っていなかったと思います。『頼むよ』『お前がいれば優勝できる』と言う人がたくさんいて、“なんでこの人たちは走りもしないで好きなこと言っているんだ”と、心の中で思っていた時期もありました。チーム内で自分が置かれている状況や立場、世間からみた自分の状況や立場を理解しようとしていなかった。そうしたプレッシャーにきちんと向き合って、いろいろなことを咀嚼できていたら、3年生のときの不調も乗り越えることができ、3連覇を逃した第87回大会もまた違った結果になっていたかもしれません。」
――それから1年後、主将として最後の箱根駅伝を迎えました。今度は往路・復路とも制する完全優勝。最後の箱根はどのような大会だったのでしょうか?
「2011年の第87回大会を終えた後の3月、東日本大震災が発生しました。東北地方をはじめ、甚大な被害に遭った被災地に対して何かできることはないか、日本中の多くの人が考える中、“僕たちは箱根で頑張っている姿を見せて、被災地や被害に遭われた方に勇気を発信しよう”とチームで話し合いました。勝って何かメッセージを伝えたいと。4年目はそのことに貪欲だった1年間でしたね。」
――勝負で勝つだけでなく、勝つことで発信できることにこだわったのですね。
「はい。僕は被害のあった福島県出身ということもありますが、活躍して結果を出せば発信する言葉にも力強さが宿るはず。その想いは、チームにとって大きなモチベーションのひとつにもなっていました。」
――どのような言葉を発信したか、覚えていますか?
「『僕が苦しいのは1時間ちょっとだけど、福島県の方々はもっと苦しい思いをしていると思います。それに比べたら僕は全然きつくなかったです』という趣旨のメッセージを発したと思います。
ちゃんと伝わったのか、少し不安に思った時期もありましたが、箱根駅伝の後、多くの方からお手紙をいただいたり、会うたびに『ありがとう』という言葉をいただいたりして、僕らの想いは届いたんだ、優勝できて本当に良かったと、ほっとした記憶があります。」
――あらためて5区についてお伺いします。今井さんから教えてもらった箱根駅伝5区の景色というのは、どのようなものでしたか?
「毎年、気持ちも考え方も違うし、年々、成長もしています。同じ状況はひとつとしてなく、その時々でやるべきことも変わるので、同じ5区でもそれぞれまったく異なる景色が見られたし、経験もさせてもらいました。
でも実際に覚えているかというと、そうでもないんです。印象に残っているのは、1年生のときに初めてスタートラインに立ったときの景色と、4年生でトップでタスキをもらったときの景色。でも、レース中のことは良い意味でほとんど覚えていないのです。特に4年生のときはトップでタスキをもらったので、そのままゴールにタスキを運んで勝つことしか考えていませんでした。」
――今井さんがおっしゃっていた“やりがい”については何か感じられましたか?
「“やりがい”は終わってからより強く感じましたね。かつて箱根駅伝は花の2区や最終10区を走る選手が注目されがちでしたが、今や同じくらい5区も世間の注目度は高く、大会的にも大きな意味のある区間に変わってきました。きついけれど順位の変動も大きく、チームを優勝に導くこともできて、活躍すれば多くの注目が集まります。それまで5区というと走りたくない選手が多かったのですが、今井さんに始まって、私(柏原)、青山学院大学の神野大地君と、山の神と称されるようになって、各チームで5区を志願する選手も増えてきたと聞いています。チームに貢献することはもちろん、そうした5区という区間の評価や価値を変えるひとりになれたことは、とても大きなやりがいになったと思っています。
でも卒業して振り返ると、“時の人”になるだけではだめで、そこで得た立場を活かして自分から何かを発信したり行動に移すことが大事だということです。ただ走って区間賞、区間新をねらうのではなくて、もう一つなにか付加価値をつけてほしい。
僕がそうだったように、箱根駅伝出場をきっかけに、人生を変えることもできる。それくらい箱根駅伝は大きな影響力がある大会なんだということを、これから箱根駅伝を走るすべての選手に知ってほしいですね。」
2020箱根駅伝の展望
画像:東洋大学4年生の相澤晃選手。出雲駅伝では3区・区間新記録。全日本大学駅伝でも3区・区間新記録をマークし、チームを牽引。最後の箱根駅伝での走りに注目が集まる。
――では最後に、出雲駅伝、全日本大学駅伝の結果や流れを見て、今年度の箱根駅伝の展望についてお聞かせください。
「出雲、全日本の大会結果からも想像できますが、今年に関しては、“予測不能”という印象ですね。ここ数年は青山学院大学や東海大学、駒澤大学が優勝候補筆頭にあげられ、それに対して東洋大学がダークホース的な存在としてどこまで優勝争いにからめるかという予想が多かったのですが、今年は実力が拮抗している上に、どこの大学も奇襲をかけてきそうで、まさに腹の探り合いという印象があります。どのチームにも勝つ可能性はある。それだけに見る側としては、非常におもしろいと感じるかと思います。もしかしたら往路で30秒差以内に3チーム、5チームが固まってくる緊迫した展開になるかもしれませんね。」
――その中で母校、東洋大学のポイントはありますか?
「これは東洋大学に限らず、今年の大会で優勝するには各区間で安定して上位に入ること、本当の意味での総合力がキーワードになってくると思います。言い換えれば、各大学とも絶対に取りこぼしはできない展開になるでしょう。
本当に各校がベストな状態のときの実力は拮抗しているので、東洋大学が優勝するチャンスは十分にあります。エースの相澤晃選手を軸にしながら、他の9人が相澤選手を活かす走りに期待をしています。そのためにポイントとなってくるのが、ベストな状態の選手を選ぶことや、当日の状況なども含めた冷静な判断。さまざまな状況を的確に見極めることが重要になってくると思っています。」
――かつて柏原さんが1年生のときに佐藤コーチが選手の調子を見極め、適材適所に選手を配置したような、的確な采配ですね。
「はい。そうした各大学の戦略にも注目したいですね。
もうひとつポイントとなってくるのは、プレッシャーにいかに耐えられるか。勝負のカギはこのストレスコントロールだと思います。勝負が拮抗してくると、コンディションやメンタル的な要素が勝負を分けます。もう少し具体的にいうと、レース前、レース中も含めて、監督やコーチがどのような声かけをするのか。またレース当日までチーム全体としてどういう雰囲気で過ごすのか。充実した準備のできたチームが、最後は勝てるような気がしています。」
――陸上は個人競技というイメージが強いですが、箱根駅伝はまさにチームプレイ、総力戦ですね。
「そのとおりですね。最近、僕はよく箱根駅伝を会社や仕事に置き換えて考えることがあります。会社では年間目標を立て、その目標を達成するために部署やチームに分かれていろいろな人がそれぞれの仕事を全うします。やっていることはバラバラですが、ひとつの目標に向かって動いている。箱根駅伝は、この企業活動と同じなのではないかと思っています。
だから最終的には選手だけでなく、スタッフも含め大会に関わるすべての人がそれぞれの仕事を全うしないと目標は達成できません。それができたチームが、箱根駅伝を制することができるのだと思います。」
第96回東京箱根間往復大学駅伝競走 2020年1月2日(木)〜1月3日(金)