INTERVIEWEE
森田 明美
MORITA Akemi
東洋大学 社会学部 社会福祉学科 教授
東洋大学社会貢献センター長。社会学修士。専門は子どもの権利を中心とした児童福祉学。日米の共働き、シングルマザー・ファーザー、10代の母親など子育て家庭の実態と、保育所・幼稚園、児童館などによる子育て支援に関する実証的研究を行い、東日本大震災以降は被災地の中高生を支援する活動を続けている。NPO法人こども福祉研究所理事長、東日本大震災子ども支援ネットワーク事務局長も務める。著書に『よくわかる女性と福祉』(ミネルヴァ書房)、『幼稚園が変わる 保育所が変わる』(明石書店)、『子どもの権利-日韓共同研究』(日本評論社)などがある。
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――先生は、東日本大震災の発生直後から被災地の子ども支援をされているそうですね。
私のゼミの卒業生が、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県山田町の出身だったことが、被災地支援を始めるきっかけでした。2011年の5月に山田町を訪れてからは何度も地元の方と協議を重ね、2011年の9月に中高生のための軽食付き自習用スペース「山田町ゾンタハウス」を開設しました。長期休みを利用して東洋大学の学生たちが現地を訪れ、中高生の勉強をサポートしたり、一緒にご飯を食べたりして交流するのです。2020年8月でゾンタハウスの活動は終了しましたが、ここで多くの子どもたちと学生が交流し、地域の人々も巻き込みながら町を元気にすることができたのではないかと考えています。
また、福島県の被災地で友達や家族と遊ぶ時間も、場所もない子どもたちを支援するために、「サマーレスパイトデイズ」というプログラムも2011年夏から学生たちと一緒に実施しています。富士見高原や河口湖、鴨川にある東洋大学のセミナーハウスにひとり親家庭の親子を招き、子どもたちは学生と宿題をしたり遊んだりしてリフレッシュする一方で、大人たちは親同士で交流を深めたり、専門相談を受けるという内容です。
――どちらの支援も、子どもたちと大学生の交流があるのですね。
大きな災害時こそ、復興した未来を担う子どもたちへの支援が大切だと考えています。そのために、年の近いお兄さん、お姉さんである学生との交流の機会をつくっていますが、私たちが想像する以上に、学生たちの持つエネルギーは子どもたちにとって大きな力になると実感しています。ゾンタハウスは長期休みが終われば学生は山田町を離れますし、サマーレスパイトデイズは全行程が3日ほどです。どちらも、子どもたちと学生が関わる時間はほんのわずかでしかありません。しかし、短い時間の中でも子どもたちと学生が心を通わせ、信頼感を高めていき、周囲の大人にも安心感を与えていきます。こうした「つながりの渦」を作れるのは、やはり子どもたちと歳の近い大学生だからではないでしょうか。そして、この関係性は甚大な災害が残した子どもたちの心の傷に、深く寄り添うものだと実感しています。
また、大学生と交流してもらうねらいの一つには、被災した子どもたちにとって「目標となる大人」と出会わせてあげたいという思いがありました。その出会いが生きる目標や支えになり、生きること・学ぶことに対する意欲につながると考えています。子どもが目標となる人と出会うことは、児童福祉の観点では非常に重要なことなのです。
「共感」こそが、被災した子どもに寄り添うポイント
ゾンタハウスで被災地の子どもたちと交流する様子
――東日本大震災では、東北地方を中心に多くの方が被災しました。震災が被災地の子どもたちに与えた影響について、教えてください。
1995年に発生した阪神淡路大震災が朝方に発生した地震だったのに対し、東日本大震災は日中に発生した災害です。そのため、親は職場で、子どもたちは学校や下校中の通学路、または放課後の公園など、地震発生時にいた場所がバラバラだったのです。つまり、親と離ればなれで怖い経験をした子どもが非常に多く、数時間から数日、一週間以上も連絡が取れない親子もたくさんいました。さらには、残念なことに家族や親戚と死別・離別してしまうケースもあり、震災前と家庭環境が大きく変わった子どもたちもいます。
また、長期間にわたって避難所で生活をしたり、元の住まいには戻れず新しい家や土地で暮らし始めたりする家族も多かったことから、通っていた学校や友人関係ももちろん変わります。家族だけでなく、子どもたちを取り巻く環境や人間関係など、生活全体が震災の影響を強く受けたと感じています。
――今もなお、仮設住宅で暮らしている人々の様子が報じられているのをニュースで目にします。家族や友人との別れや環境の変化は、子どもたちに与える精神的な影響も大きかったのではないでしょうか。
まさに、心の面で震災が子どもたちに与えた影響も大きかったと思います。先ほど、阪神淡路大震災と違って、東日本大震災は家族がそれぞれの場所で地震に遭遇したとお話ししましたが、それはすなわち、家族の一人一人が異なる体験をしたということに結びつきます。同じ時間に、同じ地震を体験していたとしても、そのときいた場所が異なると、怖さや不安を家族間でさえ共有できないのです。
ある一組の親子がそれぞれ職場と小学校にいたと仮定します。子どもが「あのとき、地面が大きく揺れて怖かったんだ」と親に打ち明けたとき、親は地形や建物の関係で大きな揺れを感じておらず、「そこまで揺れなかったよ」と答えたとしたら、子どもはどういう反応をするでしょうか。
――それ以上、怖かった気持ちを打ち明けるのを止めてしまうような気がします…。一緒にいれば「大きくガクッと揺れたよね」「本棚から●●が落ちてきたね」と同じ記憶を共有できるのに、それができないということですね。
その通りです。このように、家族間でも体験や感情を共有できませんし、ましてや友達同士となるとさらに共有が難しくなる。そのような経験を震災直後から重ねてしまうと、「自分の震災体験を人に語れない」という現象が、子どもを中心に起きてしまうのです。大人の場合は、情報を得る手段を知っていることで「被害が広域だから、色々な体験をした人がいる」と判断できますし、自分の感じた恐怖を話すために、医師やカウンセラーに協力を仰ぐこともできます。しかし、子どもは自分の体験や感情がなぜ他人と違うのか理解することが難しいのです。
そうして心に震災体験をしまったまま青年期を迎えた人たちが、就職や結婚、出産など人生の大きな転換点において、震災当時の苦しさやつらさを思い出して悩んでしまう、というケースも近年では見られます。自分の経験が、語られずに自分の中で「孤立」してしまうからです。「誰も自分の話を聞いてくれない・分かってくれない」と考えて、話すことを諦めてしまうことで、被災体験を話すこと自体が「つらい経験」になってしまうのです。
――被災した子どもたちに寄り添うためには、その経験や話に対しての「共感」が重要ということですね。
はい。子どもたちを支える上で最も重要なのは、「誰一人として一人にしないこと」です。「自分がつらい経験をしたときには支えてくれる人がいる」「自分は一人じゃないんだ」と子どもに感じさせてあげることが、災害を経験した子どもたちには必要です。だからこそ、まず「一緒にいること」がとても大切です。悲しい時は寄り添い、楽しい時は一緒に笑ってくれる。そんな日常に安心し、感情が整理できて、人に語れるようになります。自分の体験や苦しさを打ち明けられることは自信にもつながりますし、同じような経験をした人と新たにつながる第一歩にもなります。そこで得た自信や仲間が、その後の人生で子どもたちの支えとして生き抜く力となり、復興を担う大きな力にもなるのです。家族に限らず、友人や地域の人々が、それぞれ子どもたちの話を聞く姿勢を持っていてほしいなと思います。
もちろん無理に話を引き出す必要はありません。特に、働きながら子育てに取り組む方にとっては、子どもの話をじっくり聞く時間を捻出することも難しいかもしれません。そんなときは、一緒にお風呂に入ったり、寝る前の時間を子どもとゆっくり過ごしたりするといったことでも構いません。同じ時間を過ごしていく中で、「自分の話を聞いてほしいな」と子どもが思えるような環境や関係性を地道に整えていくことが、何よりも大切です。
そして、一度語る勇気を持った人は、次の世代に向けて前向きに行動します。2016年にはゾンタハウスを利用していた高校生が、支援の恩返しがしたいとハウス内に自ら企画・運営するカフェを開き、地元の人達との交流の場をつくるなど、支援を受けたことがきっかけとなり新しい動きが生まれました。また、震災自体を風化させないように、当時の子どもたちが大学生や社会人になったのち故郷へ戻り「語り部」になるといった事例も増えてきました。この10年で成長した人々が何を掴み、行動に移したか。私たちは知り、そこから学ぶことができる節目の10年になったと思います。
次の10年に向けて、私たちができることとは
――東日本大震災の発生から、2021年で10年を迎えます。今後の支援活動の課題について、先生はどのようなお考えをお持ちですか。
震災発生から10年という時間が経過したものの、被災地の復興はまだ途上段階と言えるでしょう。先ほどお話しした通り、被害を受けた地域が広範囲であること、地域によって被害の程度もさまざまであること、復興庁など国の組織体制が盤石でないことなどが理由として挙げられます。
また、1995年の阪神淡路大震災や2007年の新潟中越地震のときは、震災の被害を鑑みて数々の子ども支援制度が整えられ、改正されてきました。例として、里親制度が挙げられます。阪神淡路大震災が発生した当時、公的補助がある里親制度は親族を対象外としていました。しかし、震災遺児・孤児となった子どもたちの引き受け手となる里親には、子どもの祖父母や叔父・叔母といった血縁関係の人も多く存在したことから、親族も里子養育手当で育てることができるように「親族里親制度」が2002年にできました。
子ども支援とは少し異なりますが、新潟中越地震の際には、特定の区域内に暮らす人々が別の地域へ集団的に移転する「集団移転」の仕組みが整えられ、地域のつながりはそのままに避難することが可能になりました。いずれも、東日本大震災でも踏襲された制度であり、過去の被災経験を教訓にできていると考えられます。
東日本大震災も発生から10年を経たことで、今ある支援制度の新たな課題が見えてくるかもしれません。そういった意味では、「震災直後の被害から時間が経って顕在化してきた問題をどのように解消していくのか」「今後起こりうる災害に、10年前の経験をどう生かすのか」ということも、震災後を生きる私たちの命題と言えるでしょう。
――次の10年に向けた「子ども支援」の課題についても教えてください。
震災当時0歳だった子は現在10歳になり、次の10年、つまり震災発生から20年後には20歳になっています。当時は子どもだった人たちが、全員大人になるのです。心に震災の傷を抱えたまま子どもから親になり、仕事に就き、親になっていく人たちの10年をどのように支え、未来ある10年を保証できるかということが、子ども支援領域における大きな課題だと考えています。
まだ調査段階ではありますが、子どもから大人へと成長していく被災地の人々が、進路決定や職業選択、子育ての場面において、どのような影響を受け、判断を行っているのかについても研究を行っています。この結果によって、私のような児童福祉学の研究者だけでなく、被災地の子どもたちを取り巻く家族や地域が何をすべきかということも、次第に明らかになるのではないかと感じています。いずれにしても、震災後の子ども支援はまだ道半ばです。震災後に生まれた被災地の人々の「願い」を、社会一丸となって一つでも多く叶えることが、今後の10年でますます必要になってくると思います。
――私たちが今日からできる「ポスト10年」に向けたアクションはなにかありますか。
震災に関する新聞記事やWeb記事を目にしたり、誰かの話を聞いたりしたときに、そのとき自分が感じたことを言葉にするのが、一番身近で取り組みやすいアクションだと思います。それは、日記やブログ、SNSで文字に残しても、周りの人と話してもいいと思います。自分の感情を言葉にすることで、周囲の人々の共感が発生し、その共感によって周囲の大人たちやメディア、そして社会全体が動くのです。
毎年3月11日が近づくにつれ、震災の関連情報が発信されているように思いますが、次の大震災はいつ起きるか分かりません。この先、自分自身が被災する可能性もあります。10年という節目だから震災に思いを馳せるのではなく、継続的に震災について考えることが、ポスト10年を迎える上で「自分は何をすべきか」「10年後にどんな社会になっていてほしいか」を見つけ出すポイントになると思います。