東洋大学 経済学部経済学科 准教授
博士(経済学)。専門分野:実証ミクロ経済学、労働経済学、行動経済学、都市経済学・公共経済学。公益財団法人家計経済研究所、慶應義塾大学を経て、2020年より現職。
論文に「自信過剰が男性を競争させる (共著)」 [『行動経済学』,Vol. 2]、「The Effects of Housing Wealth on Fertility Decisions: Evidence from Japan」[Economics Bulletin, Volume 35, Issue 4]など。
経済学を拡張させた行動経済学。仮定と現実の「ズレ」の視点から、合理的な意思決定を誘導する
――行動経済学とはどのような学問なのでしょうか? 先生がご研究を始められたきっかけも教えてください。
従来の経済学では、典型的な“個人”というものを仮定して理論を組み立てていました。その個人は計算能力が高く、たくさんの情報をもとに自分の利益を最大化するような合理的かつ利己的な意思決定をし、立てた行動計画は必ず実行する人物として仮定されています。その前提に基づいて、さまざまな経済事象を分析するのですが、現実の人間は計画したことを実行できなかったり、頭を悩ませた結果、最適な意思決定ができなかったりします。仮定された個人と現実の人間との間に生じる“ズレ”を、心理学の概念に照らし合わせて予測可能な形で見出すのが行動経済学だと捉えています。心理学的要素を取り入れて、伝統的な経済学を拡張・発展させた学問分野と言えるでしょう。
現在の研究を始めたのは、経済学部で学んでいた時に金融のようなスケールの大きい分野よりも、家計や労働、家族、都市や地域といった身近な対象に興味を持ったことがきっかけです。また、理論を学ぶだけでなく、実際のデータを分析して、経済理論や政策介入の効果を検証するアプローチにも魅力を感じました。
――近年、行動経済学が大きな注目を集めていますが、その理由はどこにあるのでしょうか?
先ほどお話しした予測可能なズレは「バイアス」とも呼ばれ、それをうまく利用することで、企業や消費者、労働者を合理的な意思決定に誘導することができます。そのため、行動経済学は従来の経済学よりも社会実装がしやすい学問だと言えます。そうした社会との関連性の深さが注目を集める要因になっているのではないでしょうか。メディアで多く取り上げられているのは、マーケティングでの応用事例です。例えば、最近では行動経済学を応用した保険商品が発売されています。最初は15%割引で加入できますが、1年ごとに健康診断を受けて、結果が良くないと保険料が高くなってしまいます。すると加入者は保険料を上げたくないので頑張って健康を維持するようになるでしょう。これは行動経済学で言う「損失回避」という性質を利用して、消費者を健康維持に導いている事例です。このように、身近なところで社会実装されていることが人々の関心を引いているように思います。
消費行動における応用が注目を集めがちですが、行動経済学は政府や自治体の政策にも応用しやすい学問だと考えています。従来の理論に基づいた政策提言だけではなく、予測可能な“ズレ”を考慮した行動経済学の視点を加えて資料を提供することで、より現実に即した政策が実現できるようになると期待しています。
競争を好む男性、リスクを避ける女性。男女の行動や考え方の違いとは?
――先生は男女の仕事に対する意識の違いについて研究されていると伺っています。具体的な研究内容を教えてください。
先進国の中でも日本は企業の役員や管理職に就く女性の割合が少ないと言われています。一般的に、女性が長時間労働できない、あるいは離職率が低い男性の方に企業がより多く投資するといった理由でスキルに差がつくことが原因として挙げられますが、実はそもそも昇進競争に参加する意識が男女で違うのではないかと考えたことが現在の研究の出発点になっています。もちろん能力の違いもありますが、リスクを取ることを良しとするかしないか、競争そのものが好きか嫌いか、あるいは自分に自信があるかどうかといった男女の資質の違いも昇進競争に影響してくると考えたのです。研究を重ねた結果、やはり男性の方が競争を好み、自信過剰であるため、積極的に昇進競争に参加していることがわかりました。また、男性は女性が相手だとより自信過剰になり、女性は同性が相手だと自信を失わないという興味深い結果も得られました。
――そうした男女の違いを生み出す要因はどこにあるのでしょうか?
昇進に影響する点として、一般的に女性は自分の仕事に対してフィードバックをもらうことを好まない、給与や待遇について交渉することを避けるという傾向があります。また、女性の方が不確実性を嫌い、リスクを回避する傾向が強いと言われています。競争に対する選好が形成される要因は「生まれつき」や「文化や教育によって形成される」などのさまざまな議論があり、現在のところ後者を裏付ける研究結果が多く出ています。例えば、女性の社会的影響力が強い文化の地域では、女性の方が競争を好む傾向が見られます。日本の場合、少なからず昔ながらの性的役割分業意識が残っているため、女性が競争を好まないという傾向が強くなっているのではないでしょうか。
行動経済学を応用。女性の活躍推進、社会課題解決、そして日常生活へ。
――先生の研究から得られた成果は、社会でどのように応用できるのでしょうか?
競争する環境を構築するうえで、研究で得た知見を活かせると考えています。例えば、ある企業で、女性の活躍を推進したいにもかかわらずそれが思うように進まない状況があれば、女性の意識傾向に応じてチーム編成の男女比を工夫するといった対策が立てられます。また、研究の中で、競争して一番になったら高い報酬をもらえる仕事か、コツコツ働いた分だけ報酬をもらえる仕事のどちらを選ぶかという実験をしています。男性はやはり前者を、女性は後者を選びやすいという結果になりました。そうした傾向をもとに昇給や昇進のシステムを変更することもできるでしょう。また、競争環境下でのパフォーマンスには、子どもの頃から男女差があるという研究もあり、例えば子どもに徒競走をさせた場合、男子は一人で走るよりも競走して走った方がタイムが良くなるという結果が得られています。行動経済学や労働経済学では、個人が周囲の人々から受ける影響は「ピア効果」として知られています。この性質をうまく使えば企業における人材育成や生産性向上が期待できます。
行動経済学の知見は教育分野にも応用できます。レポートなどの課題を先延ばしにしてしまい、締め切り間際に焦って書き上げる現象を、行動経済学的に改善する方法があります。例えば、卒業論文を3か月後の締切までに提出しなければならない時、最終の締切日だけを設定するのではなく、1か月後にここまで、2か月後にここまでというように細かく段階を提示した方が、スケジュールを守れるうえ、質も良くなるのです。
――他にも先生が取り組まれている研究があれば教えてください。
過去には、女性が育った住宅環境とその後の行動の関連性について研究を行いました。都会に住んでいる女性の中でも、子どもの頃に地方の広い住宅で育った女性は、結婚して東京のような都会で暮らすと出生率が低い傾向にあります。研究の結果、子どもを自分と同じように広い住宅で育てたいという願望があるにもかかわらず、都会ではそれが叶わないという状況が影響していることが分かりました。こうした研究は、マイクロデータと呼ばれる公表されている個人データを使って行います。どの年代にどの地域に住んでいたのか、その後の出生率はどうなったのかということを、データをもとに分析しています。
現在は同様の手法を用いて、女性が育った環境と労働供給の関連性について研究を行っています。日本は地域によって女性の就業率が大きく異なります。現段階での仮説では、子どもの頃、周りに働いている大人の女性がどの程度いたかがその後の労働供給に影響しているのではないかと予想しています。こうした研究を通して、少子化対策や女性の就労促進に寄与できればと考えています。