INTERVIEWEE
三浦 節夫
MIURA Setsuo
東洋大学 ライフデザイン学部 教授
井上円了研究センター研究員
国際井上円了学会会長
専門分野は、井上円了研究、東洋大学史研究。博士(文学)。おもな著者は『新潟県人物小伝 井上円了』新潟日報事業社、『井上円了―日本近代の先駆者の生涯と思想』教育評論社、『井上円了と柳田国男の妖怪学』教育評論社
「妖怪と哲学」点と点が結ばれ始まった井上円了氏の妖怪研究
画像:東洋大学井上円了研究センター研究員、三浦節夫先生−哲学者として有名な井上円了先生ですが、一見、無関係のように思える「妖怪」に興味を持つという原体験は何処にあったのでしょうか。
「円了先生はもともと、お寺に生まれ、幼いころから妖怪の話を好んだといいます。事実、本人も幾度か妖怪らしき足音を聞いたり、障子から覗かれている気配を感じたりするなどの経験があったことを書き残しています。また、土地柄、妖怪の話が多い雪国である新潟で生まれ育ったということも大きいでしょう。」
−生まれ育ちが起因していたと。ただ、それだけでは本格的に妖怪研究をしようとまではいかないですよね?
「円了先生が本格的に妖怪研究を始めたきっかけは二つあります。まず、当時東京大学で円了先生が学んでいた哲学は論理学・心理学・純粋哲学・倫理学という段階を踏んでいました。その中の心理学を学ぶうちに、人が妖怪として恐れているのは『十中八九、心の問題だ』という考えにいきついたんです。二つ目は、SPR(英国心霊現象研究協会)という英国の心霊研究会を知ったことにあります。」
−子ども時代から持っていた「妖怪への興味」が、大学時代に学んでいた哲学とつながっていたことに気づいたということですか。
「そうですね。それらがきっかけになり、東京大学に『英国の心霊研究会のようなもの』を作ってほしいと建議します。そして、1886(明治19)年に先生が初めて組織した『不思議研究会』が設立されました。しかし、第三回を最後にして病気に罹り活動を終了してしまうんです。それでも先生は諦めずに、一人で妖怪研究を続けました。」
−一人で研究というと具体的にはどのようなことをしたんですか?
「まず、最初に行ったのが雑誌に『各地の妖怪の話を教えてください』『身近な幽霊の話を教えてください』という広告文を出稿したんです。結果的に、約500通が届いたといいます。このようにして集めた事例を調べ、研究を行いながら、翌年の1887(明治20)年に私立哲学館を創立します。」
−私立哲学館は今の東洋大学ですね。
「はい。哲学館の講義では妖怪学に関わる『応用心理学』がありました。そこでは妖怪学を講義で教えていたんです。その時に流行したのがヨーロッパから入ってきた心霊術ブーム、『テーブルターニング』だったのです。」
実験を繰り返し、「なぜ」を追求し続ける井上円了スタイル
画像:稿禄の1ページ。赤線の部分に、英語でテーブルターニングという記述がある。−「テーブルターニング」ですか。
「このテーブルターニングこそがこっくりさんの始まりなのです。当時、外国語を理解できる人は少なかったですから、テーブルが『こっくりこっくり動く様子を見て』こっくりさんと名付けられます。実は、先生は大学時代からテーブルターニングを知っていたようで、『稿禄』という大学時代に取っていたノートに記述があります」
−ブームが起こる数年前には知っていたと。
「ある程度、西洋で流行っていることは調べていたようです。そこで先生は、『そもそもどういう形で日本に入ってきてブームになり、こっくりさんに変化したのだろうか』と疑問を持ち、調べ始めます。その結果、伊豆の下田の外国人船員がやっていることを日本人が真似て、全国の船着き場から広がっていったことを突き止めるのです。そして、こっくりさんの解明に立ち上がります。」
画像:井上円了氏が出版した「妖怪玄談」。表紙は当時のこっくりさんの様子が描かれている。
−なるほど。当時のこっくりさんのやり方は、現代のようにコインを使ったものだったのですか?
「根本は似ていますが少し違います。資料に出てくるやり方は『安定しない机』を3人で囲み、手を置いたりコメびつのフタを置いたりしていたようです。それらの動きや音、机自体の傾きから占ったみたいですね。なんにせよ、固定された頑丈なものではなく『不安定なもの』を使うことがセオリーになっていたようです。」
−結果として、『なにかが動く』ということで占いをするという性質上、不安定にする必要があったということですね。では、円了先生はどのようにして解明に至ったのでしょうか?
「これは円了先生自身のスタイルなんですが、とにかくたくさん実験を行ったんです。年齢、性別、性格などを考慮し、更に人の組み合わせを変えて『なぜ動くのか』を追求しつづけました。その結果、感受性が強く、信じやすい人のとき、フタが動きやすいことを発見します。」
−盲信せず、『なぜなのか』を追求する。妖怪が人々の生活に結びつき、深く信じられていた当時では、なかなかそこまで出来る人はいないですよね。
「実験により2つの答えが導き出されます。1つが『予期意向』。この現象は潜在意識、要は予め心の中にある答えを予想してしまうことですね。2つめは無意識に筋肉が動く『不覚筋動』です。『予期意向』と『不覚筋動』が結びついて、フタを動かしてしまうんです。」
画像:妖怪学講義
−心理学・医学的などの見地からこっくりさんは霊ではなく、人が動かしているということを証明したんですか。
「そうです。そして、これらのことを最初に『哲学会雑誌』に発表し、その後に『妖怪玄談』という本にまとめて刊行します。こうして、円了先生は『妖怪博士』として全国に知られるようになるんです。ただ、こっくりさんの解明は先生の妖怪研究の入り口でしかありません。それからも新聞記事や文献を読み込んだり、全国行脚をしたりして研究を続けます。本を出して妖怪研究家として有名になったこともあり、様々な場所で妖怪談を聞くようになるんです。それらの情報をまとめたのが、24冊にも及ぶ『妖怪学講義』です。」
−24冊…!
「円了先生は妖怪の仕業とされている様々な現象に対して、学術的な説明を加えています。つまり、自分の哲学的な考えを基本にしながら、西洋の自然科学の知識や医学の知識を使って妖怪を解明しているんです。後に、妖怪学講義は計2000ページ以上、合本6冊にされて再度世に出ます。当時、明治天皇も愛読されたそうですから、とても注目されていた本でした。」
虚怪と実怪。井上円了が導き出した妖怪の分類
−明治天皇まで読まれたんですか!これはすごいことですね。
「そうなんです。そして円了先生は、妖怪学講義の結論として妖怪を図のような分類に分けているんです。」
−非常に細分化されていますね。具体的に、どのような解釈で分けられているのでしょうか?
「まず、『虚怪』は真の妖怪とは言えない人間の虚構と考えの誤りからもたらされるとしています。『偽怪』は人の意思、工夫によって起こるもの、こっくりさんはこれに当てはまります。『誤怪』は偶然に起こったことが誤って妖怪の仕業となってしまったものですね。『障子が破れて見られている気がする』といったような。」
−なるほど。これはわかりやすいですね。
「そして、虚怪と対になるのが『実怪』です。その中の『仮怪』は自然に起こるものを指し、物と心の中で起こるものに分けられます。要するに、物理学で説明できるのが『物怪』、心理学で説明できるのが『心怪』です。『真怪』は、名前の通り真正の妖怪で実在するものとしています。」
−真怪は本当の妖怪だと定義付けたんですか?
「厳密に言うと少し違います。仮怪は今の時点では解明されていないが、いずれ道理がわかるものです。当時で言うと、蜃気楼・憑き物などですね。しかし、真怪は人知を超えたもの。例えば、今でも自然科学で我々が使っている技術というのは、自然現象の応用ですが、結局その本質的な原因の理解はされていないですよね。『現象が繰り返されているから大丈夫だ』という範囲で使われている。宇宙のことなどもそうです。」
−そう言われると、我々人間は『わかっているようでわかっていないこと』がまだまだたくさんありますね…。万物の始まりも本質的にはわかっていない。つまりそれが真怪なんですね。
妖怪の仕業にするのは「己で考えていない」と同義である
画像:井上円了氏−このようにして妖怪を紐解いていった円了先生ですが、実際どのような想いがあったのでしょうか?
「当時は、妖怪が非常に生活に密着していました。そのため、わからないことや不思議なことが起こると大体が『妖怪(お化け)の仕業』になっていたのです。例えば、病気を妖怪のせいにして医者にもかからず御札を貼るだけで治ると信じ、死んでしまった人もいましたし、こっくりさんが流行した際は、こっくりさんを使った犯罪や詐欺が横行していたんです。」
−なるほど。極論、「わからないことはわからないままでいい」という考え方だったんですね。それによって死んでしまう人や、騙されてしまう人もいたと。
「だからこそ、円了先生は幾度も全国巡講をし、各地の妖怪情報を集めると同時に民衆に対し講演を行って、合理的なものの考え方を広めていました。つまり、『自分で考える事の大切さ』を妖怪学を通じて広めていったのだと思います。」
−明治時代に入り、急速に日本が近代化していく中で、円了先生は更にそれを推し進めたかったのでしょうか?
「苦しんでいる大衆を助けたかったということに尽きると思います。円了先生は『知りたい=自分のものの見方・考え方』を求めることを哲学と言いました。そして、それが教育理念でもあります。事実、哲学館引退後、亡くなるまで全国巡講は続きました。私は、円了先生が自ら勉学に励み努力をしたのも、哲学館を設立したのも、全ては大衆のためだったのではないかと思うのです。」
−生涯を賭け、最期まで教育を行う…。円了先生は妖怪博士であると同時に真の教育者でもあったんですね。
「謎と手段」。井上円了が残してくれたもの
三浦先生曰く、30年前は実際に井上円了氏から講演を聞いたことがある人が生きていたといいます。 我々人間は文化を引き継いでいく生き物です。先に生きていた人たちから知識を引き継ぎ、それを後世に引き継いでいく。それは生活の知恵はもちろん、仕事など全てのことに当てはまります。
その一分野である「妖怪」という概念を形作り、現代に引き継いでくれたのは間違いなく、井上円了氏なのではないでしょうか。 そして、死後もなお「真怪」という言葉を残し、我々に自分で考え解明することの大切さを教え、さらに考える人間を作る教育の場、大学を残してくれています。
つまり、「謎」とそれに近づく「手段」を用意し、この世を去った井上円了。 その意思を引き継ぎ、現在・未来に蔓延る『妖怪』を退治するのは我々の役目なのかもしれません。