INTERVIEWEE
TOSHI-LOW
1998年 東洋大学 社会学部 第2部社会学科 卒業
1974年生まれ。茨城県出身。東洋大学に通う学生時代、1995年にパンクバンド「BRAHMAN」を結成、ヴォーカルを担当。2005年にはアコースティックバンド「OAU(OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND)も結成し、ギター・ヴォーカルを担当している。2011年3月11日、東北・関東地方を襲った東日本大震災以降、各地で起こる災害への支援を続け、被災地支援を目的としたNPO法人「幡ヶ谷再生大学 復興再生部」の代表を務める。
◎BRAHMANオフィシャルWebサイト
◎OAUオフィシャルWebサイト
◎幡ヶ谷再生大学復興再生部オフィシャルWebサイト
“人とつながる”きっかけになった音楽
社会人になる前に過ごす「大学生」という時間。それは長い人生で与えられた「モラトリアム」ともいえるかもしれません。どんな人間になりたいのか、どんな仕事をやりたいのか。あるいはまだおぼろげではあるものの、もっと先にある夢を追いかけたい――。
何をやるのかすぐに決めなくてもいいし、興味を持てることに思う存分、時間を注げる。そんな時間が、のちの人生で大きな財産をもたらしてくれた。こんな経験を持つ人は多いのではないでしょうか。TOSHI-LOWさんも例外ではありません。大学生のときに没頭した音楽で、その後の人生を切り拓いていきます。
――TOSHI-LOWさんが、東洋大学に通っていたのはいつのお話ですか?
「1993年から5年間通いました。自分は随分と優秀な学生だったので(笑)、他の人より長く通わせてもらいました。」
――他の学生さんよりも熱心だったんですね(笑)。学部はどちらでしたか。
「社会学部ですね。」
――社会学部を選んだ理由はなんだったのでしょうか。
「高校の頃、社会系の科目が得意だったからですね。高校時代は政治・経済、中学時代は公民とか。この類の科目は勉強するのが好きでした。『世の中の、何の役に立つのかな』と自分が疑問に思ってしまうような内容はすんなり覚えられないタイプだったので、家に帰るとニュースでやっているような事柄に結びついている社会学はわかりやすかったんだと思います。
――ご自身をどんな学生だったと見ていますか?
「うーん、ずいぶん不真面目な大学生だったかもしれません(笑)。夜間に通う2部の学生だったので、授業は夕方から2コマ。昼間はみっちりアルバイトしていました。プールの管理人に飲食関係。正直、夜の授業は眠気との戦いでした……」
――BRAHMANを結成したのは1995年。大学生活3年目の話ですね。
「はい。大学1年目に軽音楽サークルに入ったんですよ。ただ、なじめなくてすぐ辞めちゃったんです。良いと思わない先輩の音楽を褒めなきゃいけない空気感とか……ダセえよって。それからはライブハウスに通って、自分で音楽仲間を増やしていきました。音楽に費やす時間もどんどん増えていきましたが、いま振り返ると、あの5年間は自分にとって『人生の余白』の時間でしたね。」
――TOSHI-LOWさんが大学に籍を置いている間に、BRAHMANはバンドシーンで頭角を現していきます。支えになったエネルギーとは何だったのでしょうか。
「音楽で有名になって、『稼いでやろう』っていう欲求はまったくなかったんですよ。自分たちがデビューを飾った当初の状況って、『稼いだらカッコ悪い』。なんなら『売れたらカッコ悪い』とでもいうような空気が流れていました。要は『長いものに巻かれるのはカッコ悪い』という考えですね。自分たちもそう信じていました。なので、エネルギーとなったのは音楽を通じて、人とつながること。これは他では得難い喜びでしたね。ライブをやると、お客さんが聴いてくれるのは楽しかった。それだけに、ライブの最中、お客さんが帰っちゃうのを見るのはきつかったですね。お客さんが2人しかいない状況でライブをやったこともあります。」
――音楽を続ける動機は「人とつながる」ことだったんですね。
「お金じゃなかったですね。ただ、バンドメンバーは自分のように学生ばかりではありませんでした。工事現場でバイトしながら演奏している仲間がいて、建設作業員の宿舎に住みこみだったんですよ。楽器を持ちこんで練習とかしていると、同僚のおっちゃんから『うるせえ』とか言われてきつそうでしたね。仲間として、それはなんとかしたいなと思っていたので、そういう場所から出ていくためのお金だったら稼ぎたい……そのくらいの気持ちはありました。」
――1995年は、日本の平成史を語るうえで大きな出来ごとが立て続けに起きた年でもあります。そのひとつに阪神淡路大震災があります。この時のことを覚えていますか?
「覚えていますよ。その日は朝からバイトで、職場に行ったら大騒ぎになっていました。でも、何をしていいかわからなかった。やったことといえば、駅前でチャリンと募金をするぐらいで。周りには、ボランティアに出かける人もいましたけど、自分はそれを見ているだけでした。なんか穿った見方しかできなかったのを覚えています。ボランティアを『そういうんじゃないんだよな』『うさんくさい』とか、ひねくれたことを言っていたと思います。頭のどこかで、『何かしなきゃいけないな』『何もしないのは悪いな』という気持ちがあったからこそ、余計に斜に構えちゃったのかもしれません。」
「もう1回ちゃんと生きてみよう……」震災を機に、いつの間にかダサい大人になっていた自分に気づいた
震災ボランティアに対して、斜に構えていたというTOSHI-LOWさん。それから16年後の2011年、東日本大震災が起きます。この大災害でTOSHI-LOWさんのとった行動は、すべてのエネルギーを注ぎこんだかのような支援活動でした。震災発生直後から支援物資を募り、バンドの仲間と一緒に被災地に届けています。TOSHI-LOWさんを変えたものは何だったのでしょうか。「東日本大震災が起きる前、ミュージシャンとしても、人としても“壁”にぶち当たっていました。世間に抗うような音楽をやっていたつもりが、いつの間にか世間に流されるようになっていたんですよね。ちょうど35歳を過ぎたあたりで、岐路に立っていた。大手のレコード会社と契約を結び、生活面での不安はなくなっていった。ライブをやれば、たくさんお客さんも来てくれる。……それが“甘え”というのかな。そういうものを感じるようになっていました。
一方、若いミュージシャンはどんどん出てくる。謙虚になって彼らから学ぶ姿勢を持ってもよかったけれど、何かが邪魔をしてそれができない。『自分を変えたい』。そんな気持ちがありながら、結局は変わるきっかけをつかめなかった。その頃は、『良いライブができたら死んでもいい。しがみついてまで生きていたくない』と考えていたんですけど、被災地で活動してみると、『自分は全然ちゃんと生きていないな』と痛感しました。絶望的な状況でも必死に生きようとしている人たちを見て、なんだか恥ずかしくなったんです。『もう一回ちゃんと生きてみよう』と。うまくいかないことも含めて、自分でちゃんと受け入れてみよう。随分もったいない人生を過ごしているぞ、とそう思えるようになったんです。」
――東日本大震災以降も、日本では自然災害が相次ぎました。TOSHI-LOWさんは現在も、NPO法人「幡ヶ谷再生大学 復興再生部」という被災地支援団体の代表を務め、被災各地での支援活動を続けていますね。
「災害現場にボランティアや支援物資を届ける活動をしています。熊本地震(2016年)、西日本豪雨(2018年)で甚大な被害が出た岡山県・真備町、愛媛県でも活動しました。この活動を続けるうえで、大きなヒントになったのは熊本地震でした。」
――何があったのでしょうか。
「支援活動をするボランティアネットワークって、必ずしも大きなものである必要はないんだなと思ったんです。災害が起きると、遠隔地からバーっと人やモノが集まってきて、初動が終わったらそれっきり。そうではなく、たとえ規模が小さくとも、被災地の近くで動き続けるほうがいい。被災地とボランティアの関係も息の長い関係を築けたほうがいいじゃないですか。被災地と活動拠点が近ければ、移動・輸送のコストだって安いですし。」
――確かに。復興には長い時間がかかることもめずらしくありません。
「それをやるには、どこに、どんなことができるボランティアがどれだけいるのかを把握しておくことが大事なんです。西日本豪雨の現場では、通常のボランティアに従事してくれる人たちに加えて、熊本で被災経験のある人たちにも協力してもらいました。僕たちがやったことは、彼らが情報を行き来させるためのネットワークをつくり、何かトラブルが起きたときには『自分たちが責任を取るから』と伝え、現場が思う存分働けるための仕組みづくりですね。」
――継続的なボランティアをするにも、ある程度の費用がかかります。国や企業から頼まれてやっているわけでもありません。TOSHI-LOWさんがこの活動を続けるのはなぜでしょうか。
「人が“変化する”ことに興味があるからなんでしょうね。活動によって、自分自身も変わりましたし、ボランティアも被災地の人も変わる。なんというか、“強くなる”感じがあるんですよ。こういう活動をやっていると、インターネットで気持ちのよくないことも言われます。『うさんくさい』『売名行為だ』とかね。あることないことを含めてバッシングしてくる人がたくさんいました。東日本大震災の頃は無我夢中でやっていたので、投稿内容を見ると落ちこみましたし、頭に血が上ったこともありました。彼らの多くは斜に構えていて、人のことを冷笑するような中身を書いている。でも、これって昔の俺と同じだな、と。」
――昔の自分を見るようだと。
「ええ。阪神淡路大震災のとき、自分はボランティアに行く人たちを『なんか違うんだよな』などと、どこかひねくれた気持ちがあった。こんなことを思ったのは、自分のなかで吹きだまっていた思いがあったからじゃないかなと。『なんかやんなきゃいけない』……ところが、あの頃は何をやったらいいのかわからなかったし、やり方も知らなかった。それでボランティアの人たちが“まぶしく”見えたんです。そう考えると、バッシングに対しての考えも変わりました。以前の自分と同じように葛藤しているのかもしれないし、彼らも変わるチャンスがあるんですから。」
――最後に、大学に通うすべての後輩たちに向けてメッセージをお願いします。
「『肩書き』にこだわらない人間になって欲しいですね。被災地支援をしてきた経験から、こう思うんですよ。困難を抱えた人、地域のために動く人は、自分が所属している企業や組織を誇示したりしません。有名な肩書きを背負っていても被災地のために動かなかった人は大勢います。自分の頭で考えて、自分の身体で動ける人間になって欲しい。」
〜閑話休題〜
インタビュー後の雑談の中で、東洋大学の後輩であるサンボマスターに話が及ぶと……
「山口(隆)とはたまに飲みますよ。あいつが同級生にいたら? 絶対友達にならないですよ(笑)。無視します、無視(笑)」 と破顔しながら話してくれたTOSHI-LOWさん。ちょっと斜に構えながらも、頼りがいのある兄貴、そんな人柄を垣間見ることができるひとコマでした。
◎ロックンロールを信じて。サンボマスターが抱く音楽への思い
インタビュー後の雑談の中で、東洋大学の後輩であるサンボマスターに話が及ぶと……
「山口(隆)とはたまに飲みますよ。あいつが同級生にいたら? 絶対友達にならないですよ(笑)。無視します、無視(笑)」 と破顔しながら話してくれたTOSHI-LOWさん。ちょっと斜に構えながらも、頼りがいのある兄貴、そんな人柄を垣間見ることができるひとコマでした。
◎ロックンロールを信じて。サンボマスターが抱く音楽への思い