東洋大学文学部東洋思想文化学科、文学研究科中国哲学専攻 准教授
博士(文学)。専門分野:中国古代の思想および文学。早稲田大学や慶應義塾大学などの非常勤講師を経て、2024年4月より東洋大学で勤務。翻訳に『中国漢字学講義』(東方書店)、『図説 中国文明史3:春秋戦国 争覇する文明』(創元社)など。
古代中国の文献を、学問として論理的に読み解く
――まず、先生のご研究内容について教えてください。
私は戦国時代から魏晋南北朝時代と呼ばれる時期の中国文学を研究対象としています。特に専門とするのが『詩経』という全305篇からなる中国最古の詩集です。詩集の研究といっても詩そのものの面白さを紐解くというよりも、当時における詩がどのように解釈されていたのか、哲学的・思想的にどのような影響を及ぼしたのか、について多角的な視点で研究しています。もう一つ研究対象としているのが、『墨子』です。墨子とは戦国時代に活動した墨家の開祖で、墨家の主張を集めた書も『墨子』と呼ばれます。私たちでは読み解きにくいような難しい論理が書かれているのですが、それらの記述を論理学の観点から研究しています。
――研究で心掛けていることは何ですか?
研究では、とにかくテキストを徹底的に読み込むことを心掛けています。当時の文献は竹簡や木簡などに記されていました。漢字は時代によって書体がさまざまに移り変わっているため、例えばある書体ではAと書かれていた漢字が次の書体ではBと書かれていることがあるのです。また、原本からたくさんの人の手を経て書き写され続けている文献もあり、そもそも漢字が正しく書かれていない場合もあります。当時の文献とさまざまな書体を比較対照することで、どのような字が書かれているのか読み解くところから始めなければいけません。また、テキストを読む際には、時代背景を念頭に置きながらも論理的に考えるようにしています。安易に時代や文化などの大きい概念に収れんさせてしまわないように、テキストに忠実な解釈がまず大切だと考えています。
2000年前から現代まで『論語』や孔子が愛される所以とは?
――『論語』が2000年以上も読み継がれ、現代人からも広く愛されているのはどうしてなのでしょうか。
『論語』は、孔子と弟子たちの言行を記録した書物です。儒家の経典でもあるため、多くの研究者が正統な学問として『論語』の注釈(文献の言葉の意味を分かりやすく解釈すること)を行ってきたという歴史があります。また、歴代の文化人が経典の注釈を通じて、自分の意見を儒家の意見として主張できるという側面もありました。このように多くの研究者が注釈を続け、長年読み解き続けてきたことで、そのままでは解読できない文献も現代語訳をして誰でも読めるようになっています。『論語』はたくさんの人々によって受け継がれてきた2000年間の集大成とも言えるでしょう。
また、記されている内容が普遍的で社会に広く受け入れられやすいことも大きいと考えます。弟子の問いかけに対して孔子が答える「問答体」という形式も、孔子の教えの内容を受け入れやすくさせているように感じられます。人生の悩みや迷いを紐解くヒントを与えてくれる存在として、いつの時代も人々から支持されてきたのではないかと思います。
特に『論語』では結論をはっきりと言い切らないことも多くあります。孔子の発言とそこから導かれる答えの間に、読み手が自分の状況に合わせていろいろな解釈をする余地が残されているのです。シンプルで分かりやすく、あらゆる場面に置き換えた応用ができ、さまざまな考えを巡らせながらも、最終的には大きく外さない結論にたどり着けるという点も共感を呼ぶポイントではないでしょうか。
実は孔子自身は必ずしも自分の理想を実現して、大成功を収めた人物というわけではありません。しかし、弟子が3000人もいたり、孔子を慕う弟子によって『論語』が執筆されたりと、学問のみならず、人を惹きつけとりこにしてしまう稀有な人間性を備えた人物だったのではないかと想像しています。
考える力を養う!中学生や高校生が『論語』を学習する意義。
――中学校や高等学校で『論語』が教材として取り上げられることが多いのはなぜですか?
先述したように、『論語』は多くの研究者によって研究し尽されてきた文献です。知見が蓄積されている書物だからこそ一定の見解・解釈が存在し、漢文の教材として使用するにはふさわしいと考えます。内容面においても倫理的な教えが多いため、中高生の情操教育という観点からも適切な教材と言えますね。
また、結論に解釈の余地があるため、孔子の教えから自分なりに結論を考えた際、導き出された答えが全て正解と言えるような解釈の幅広さが『論語』にはあるのです。つまり、中高生が『論語』を学ぶことで、漢文訓読のスキルを身に付けられるだけでなく、自ら考える力も養えます。現代ではグループワークや探求型学習などが増え、主体的に学ぶ力が求められています。結論をただ暗記するのではなく、自ら考える姿勢を国語の授業でも身につけてもらいたいですね。
――『論語』の中には、学びに対する姿勢について記述はありますか。
“子曰く、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を択びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む。”
【現代語訳】孔子先生が言われた。三人で行動したならば、きっとそのなかに自分の師となる人がいる。善い人を選んで、その善い行動を見習い、善くない人を見れば、その行動を自分の身において改める。
3人で行動をともにすると、必ず自分の先生となる人がいる。そのうち善い人を選んでその人を見習い、そのうち善くない人を反面教師として自分の身を改めなさい、という意味です。つまり、普段自分の周りにいる人の行いから学べることは大いにあるということです。学校での学習に限らず、周囲の人の善悪を判断して自分を成長させていくことが大切ですね。
“子夏(しか)曰く、博く学びて篤(あつ)く志し、切に問うて近く思う。仁 其の中に在り。”
【現代語訳】孔子の弟子の子夏が言われた。「幅広く学んで一途に志し、極限まで問い詰めて身近に考えれば、仁はその中にきっとある。」
子張篇の一節です。学んで、篤く志し、それに専念して何度も深く疑問に思い、それを自分のことのように、自分に置き換えたりしながらよく考えてみる。そうすると、「仁」というのはその中に存在する。つまり、そう思う人の中に存在するということですね。「仁」とはなんなのか、この教えを日常生活にどのように生かしていくのか、ぜひ自分なりに解釈をしてみてください。